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仏教入門

未来の運命を決めるものは何か お釈迦さまの明答

特集(2)
運命は、こう決まる

 運命はどのように決まるのかについて、お釈迦さまは次のように明示されています。

善因善果ぜんいんぜんか
悪因悪果あくいんあっか
自因自果じいんじか




「善因善果」とは、善い原因は善い結果、「悪因悪果」とは、悪い原因は悪い結果を引き起こす、ということです。
 善い種をまいて悪い結果が起きることも、悪い種をまいて善い結果が表れることもありません。
 ちょうど、ダイコンの種をまいてスイカが出てきたり、スイカの種をまいてダイコンが出てくることがないのと同じです。まいた種に応じた結果しか生えてはこないのです。

 次に「自因自果」とは、自分のまいた種は、自分が刈り取らなければならない、ということです。
 他人のまいた種の結果が私に表れる「他因自果」もなければ、私のまいた種の結果が他の人に行く「自因他果」も絶対にないと、教えられています。

 自分が勉強すれば自分の成績が上がるのであって、友達の成績が上がると思ったら、だれも一生懸命努力する人はいないでしょう。
 酒を飲んで酔っぱらって怪我をするのは、飲んだ本人であって、隣にいる人がフラフラになるということは絶対にありません。

 ここでお釈迦さまが「因」と説かれているのは「行為」のことであり、「結果」とは「運命」のことです。
 幸福という善い運命は、善い行いが生み出したものであり、不幸や災難という悪い運命は、悪い行いが引き起こしたものなのです。

 善いのも悪いのも、自分の運命のすべては、自分のまいた種が生み出したものですよ、と仏教では教えられています。
 神というものがいて私の運命をつくったのでもなければ、先祖のたたりで不幸になるのでもない。キツネやタヌキがついているからでもなく、印鑑や手相の善しあしで運命が決まるのでもありません。

 私の運命のすべては、私のやった行為が生み出したものであり、それは万に一つも例外はないのだよ、と教えられているのが仏教であり、親鸞聖人なのです。


 他因自果は本当にないか?

 世の中には一見すると、自因自果とは思えないことがあるのも事実です。
 例えば、良妻賢母で非の打ちどころのない奥さんが、仕事もせず酒やギャンブルに明け暮れる夫と生活し、塗炭の苦しみを味わっていると聞けば、「夫のせいで苦しんでいる他因自果ではないか」と思うでしょう。

 しかし、まかぬ種は生えません。奥さんの受ける結果のすべては、奥さん自身のまいた種に間違いはないのです。なぜそういえるのでしょうか。
 世の中にこんなひどい男がいても、この男のために苦しんでいない女性がほとんどです。なぜこの奥さんだけが、この男のために苦しまねばならなくなったのか。その違いを考えてみなければなりません。

 それは、この奥さんが、この男と結婚したからでしょう。結婚さえしなければ、今の苦しみはなかったはず。適齢期の男性は星の数ほどあったのに、どうして、よりによってその男性を夫に選んだのでしょうか。選んだのは奥さん自身のまいた種に違いありませんから、自因自果なのです。

 では、夫は悪くないのか、無関係か、と疑問が起きるでしょう。これは仏教では縁といわれます。


 縁がなければ、結果は表れない

 因果の道理は、正確には因縁果の道理といいます。まかぬ種は生えませんが、因だけではまた、結果を生じないのです。
 お米を例に考えてみましょう。

 米はモミ種から作られますから、米の因はモミ種です。
 しかし、いくらモミ種があっても、畳の上にまいていては何十年待っても、米という結果は得られません。土や、肥料、水や空気など、いろいろな条件がそろって初めて米が取れるのです。
 仏教では、これらのものを縁といいます。
すべてのことは因と縁が和合して、初めて結果が表れるのです。

 これを因縁果の道理といい、因果の道理は縁を因に含んだいい方であることが分かります。
 因があっても縁がなければ結果は起きません。ですから、例えば、飲んだくれの夫という悪縁は、しかるべき人から厳重に言って聞かせるなど、悪縁を少しでも減らす努力が大切なのは言うまでもないでしょう。
 しかしそれは飽くまでも縁であって、自因自果の因果の道理には寸分の狂いもありません。
 運命のすべては、己の行為が因となって生み出されたものなのです。

行いが運命を生み出す。
それはなぜ?

 では、どうして行いが運命を生み出すのでしょうか。

 行為のことを、仏教では業といいます。私たちのやった行為は、業力という目に見えない力となって残り、決してなくなりません。
これを業力不滅といいます。その不滅の業力はすべて、阿頼耶識に蓄えられるのだと仏教では教えられます。
 阿頼耶識は、私たちの本心です。

 アラヤとは昔のインドの言葉で蔵のこと。
識は心のことですから、阿頼耶識とは蔵のような心といえましょう。この阿頼耶識に、私たちが日々造り続けている無量の業力が蓄えられるのです。
 肉体の命は、およそ七、八十年ですが、この阿頼耶識は、悠久の過去から永遠の未来へと流れていく不滅の生命です。

 五十年や百年の生死間は、永遠の生命の流れから見れば、とうとうと流れる大河の水面にポツンと生じ、やがてパッと消え去る水泡のようなものでしかありません。
 不滅の業力を蓄える阿頼耶識こそ、肉体が滅びても、滅びない永遠の生命なのです。

 その阿頼耶識は”暴流のごとし“と教えられます。暴流とは激しい流れのことで、滝のようなものです。
 滝は、遠くから見ると一枚の布のように見えますが、実際は激しく流れていて、一時として同じ水ではありません。
”ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず“
 不滅の阿頼耶識は暴流のごとく、絶えず変化しながら続いていくのです。


 身口意の三業


 行いには、身、口、意の三業があります。
 体でやる行いが身業。口で話す行いを口業、心でいろいろのことを思う行いを意業といいます。
 法律や道徳では、体と口の行いを問題にしますが、仏法では心が最も重視されます。

心で思ったことを、体で行い、口で言う。心はあらゆる行為のもとだからです。
 ですから心で日々思っていることこそ、私たちの運命を大きく左右していると知らねばなりません。
 三業いずれも目に見えない業力となって阿頼耶識に蓄えられ、やがて未来の運命を生み出すのです。

目に見えない業力が、
目に見える運命を生み出す

 こんな歌があります。
「年毎に 咲くや吉野の 山桜
     木を割りてみよ 花のありかは」
 春になると、満開の桜をまとう奈良県の吉野山も、冬には、枯れ木のような木々が林立するばかり。一体どこに花びらを隠しているのだろうといぶかって、木を一分刻みにしても、桜の花は見つかりません。
 木の中に蓄えられている、目に見えない勢力が、春の陽気という縁と結びついた時、初めて、満開の花を眼前に現すのです。

 同じように、業力も目には見えませんが、縁が来れば確実に、善因には善果、悪因には悪果、おのおのの結果を開きます。
 先の例で考えると、飲んだくれの男を夫に選んだのは、さかのぼれば、奥さんがその男にほれてしまったからでしょう。好き嫌いは、理屈ではありませんが、そんな男を好きにならずにおれない強い業力を持っていたということです。

 お釈迦さまは、”業力は大象百頭に勝る“と教えられています。何ものをもってしても止められぬ強い力なのです。
 悲惨な事故現場にちょうど居合わせねばならぬのも、過去、自分が造ってきた業力に引きずり出されてのことです。
 運命のすべては、自己の行為が生み出した結果なのです。


 ●縄を恨む泥棒

 ところが私たちは、幸せな運命がやってきた時には、善因善果、自因自果と認められますが、悪い運命がやってきた時には、自分の過去の行いの結果だとは、なかなか思えません。あいつが悪い、こいつのせいだと、他人のせいにしてはいないでしょうか。

「縄を恨む泥棒」
という言葉があります。
 ある男が泥棒をして捕らえられ、縄で縛られもがいている。
「こんちくしょう、この縄さえなければおれは苦しまなくていいのに。おれを苦しめているのはこの縄だ」
と縄を恨んでいるバカな泥棒のことをいった言葉です。なぜ泥棒は愚か者と笑われるのでしょうか。
 世の中にどれだけ縄があっても、盗みを働くという悪い行為さえしなければ、縛られて苦しむことはなかった。恨むのなら、縄で縛られるような己の悪い行いをこそ、恨むべきでしょう。それなのに、お門違いの縄を恨んでいるから、バカな泥棒といわれるのです。

 しかし、この泥棒を笑える人がいるでしょうか。
「オレが苦しんでいるのはあいつのせいだ」
「社会が悪い」「世間が悪い」と恨んでいる他人や世間は、全部縄です。
 私たちはうぬぼれて、「オレがいつ、こんな目に遭わねばならないことをしたか」と思いがちですが、己の過去の種まきを忘れているだけなのです。

「火の車 造る大工は なけれども
       己が造りて 己が乗りゆく」
 因果の道理に狂いなく、他因自果は、万に一つもないと教えられるのが仏教です。

順現業、順次業、順後業

 また、「正直者は馬鹿を見る」で、善いことをしてもひどい目に遭ったり、悪いことをしても見つからず、甘い汁を吸っている人もあるのでは。
 そんな声も聞こえてきます。

 釈尊はこのような疑問に、「まいた種は必ず生えるが、生えてくる時期には、前後があるのだ」と教えられています。これを順現業、順次業、順後業といいます。
 ちょうど、米のように、種をまいた年に、収穫があるものもあれば、まいた翌年に刈り取る麦のようなものもあります。栗や柿のように、数年たってようやく実を結ぶものもあるのです。

 例えて言えば、順現業は、すぐに結果が表れる米のようなもの。しばらくたってから、刈り取る麦のようなものが順次業。長い間を経てようやく結実する栗や柿のようなものが順後業です。遅速はあっても、必ず結果が表れることに例外はありません。
 雪印乳業が、自社の製品から食中毒を出し、それまでのずさんな衛生管理を露呈したニュースも記憶に新しいところです。

 原因は厳しく結果を開く。他人が見ているとか、いないとかは、因果の鉄則に関係ありませんから、善いことをして損をすることもなければ、悪いことをして得をすることも、絶対にありえないのです。

 歴然として私がない、この因果の大道理を信じれば、悪を恐れ、善を求める気持ちが強くなります。
 現在、受けねばならぬ一切の運命は、自己がかつて創造したものであり、未来の運命は、これからの自己が創造していくものだと分かるからです。
 さればそこには、迷信にも惑わされず、無気力なアキラメ主義も吹き飛んで、過去を反省し、よりよき未来を創造することに全力を挙げる、たくましい人生が開けるのです。

(終)

 


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