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親鸞聖人の主著『教行信証』は、「よろこばしきかな」で始まり「よろこばしきかな」で終わっています。「『教行信証』全巻には大歓喜の声がひびきわたっている」と文芸評論家でさえ、驚嘆しているほどです。天におどり地におどる、聖人のよろこびの声を聞いてみましょう。まず、冒頭のお言葉を紹介します。
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「ここに、愚禿釈の親鸞、よろこばしきかなや、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈に、あいがたくして今あうことをえたり、聞きがたくして、すでに聞くことをえたり」
(教行信証・総序)
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「愚禿釈の親鸞」
「愚かでお粗末な親鸞」ということで、聖人はご自身を、このようにいわれます。
そんな親鸞が、釈尊のお導きで弥陀の本願に救われることができた。釈尊のお弟子の一人に加えていただいたと、釈の字をつけられ、「愚禿釈の親鸞」といわれているのです。
「よろこばしきかなや」
何という、うれしいことか。こんなにうれしいことが外にあるだろうか。
あふれるよろこびを感動的に記しておられます。
何をそんなに、よろこばれているのでしょうか。
「あいがたくして今あうことをえたり。聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」
どれだけあいたいと思っても、毛頭あえないことに今、あえた。どれだけ聞きたくても、絶対聞けないことが今、聞けたと、喜ばれているのです。あえない人がほとんどの、めったにあえぬことに、あえたのだ。どうして、よろこばずにおれようか。聖人の大歓喜が胸に迫ります。
では、聖人がよろこばれた、あいがたいこと、聞きがたいこととは、何でしょうか。
それが、西蕃・月氏の聖典、東夏・日域の師釈です。
西蕃・月氏()とは、インド。
東夏()・日域()とは中国・日本のことです。
インド・中国・日本の高僧方のご教導にあえたと、よろこばれています。それほど、高僧方の明らかにされた真実の仏法は、聞きがたいのです。
その難しさをお 釈迦さまは、こう説かれました。
「ヒマラヤの頂上から糸をたらし、ふもとの針の穴に通すことができるだろうか。それよりも難しいことなのだ」

そんなことに出あえたなら、よろこばずにおれないのは当然です。
日本中から仏教学者が集まる比叡山で、二十年修行に打ち込んでも、真実の仏法は聞けなかったと、親鸞聖人はご自身の体験からおっしゃっています。
では、仏教には、何が説かれているのでしょうか。お釈迦さま一代の教えは、七千余巻の膨大なお経(一切経)となって今日に伝えられています。一切経を何度も読破して聖人は、こう断言されました。
「如来所以興出世()
唯説弥陀本願海()」 (正信偈())
釈迦如来が、この世に生まれ出た目的は、阿弥陀仏の本願一つを説くためだったのだ、との明言です。
仏教は弥陀の本願一つと、言い切られるお言葉には一点の曇りもありません。親鸞聖人の大自信です。
お釈迦さまが唯一つ説かれた弥陀の本願を、聖人は、「難度海を度する大船」と教えられました。本願を大船に、苦しみの絶えない人生を海にたとえられているのです。
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